機械論的な自然観においては、あらゆる事象に因果系列を充当して考える思考形式、おおよそ非常に厳しい懐疑論の世界に飛び込まない限りは、近代的な多くの人が当然に抱いているであろう信念に立脚すれば、全ての事象は因果論的に必然的に生じます。
少なくとも私たちが認識する世界においては、万物にはそれに先立つ何がしかの理由が存在します。さいころを振って1が出たのは、決して神の気まぐれでも運気が向いていたからでもなく、その振るときの力具合、地面との位置関係、空気抵抗、さいころの欠け具合等々といった物理的諸条件によって規定されます。
有り体に言ってしまえば、1が出たのは「1が出るような振り方」をしたからです。
この場合において私たちは、さいころの出目を事後的には原因結果の関係に捉えることで理解しようとします。時間的に先行して予期することが可能であれ不可能であれ、事後的には私たちは森羅万象を因果的な関係の上に捉えることができ、それを必然と称して、偶然性というものを考察の対象から除外しようと努めます。
今ここに私がいるのは、私の両親が同じ大学に通った結果出合い、交際し、結婚した結果です。両親が同じ大学へ進学したのは偶然に思えるかもしれませんが、父が他のどこでもなくその大学を選んだのは成績や居住地、家庭状況等々による結果です。さらにこれら自身も別の要因による結果でしょう。
同様のことが母にも言えます。すなわち、他でもない私がここに生を受けているのは、父の因果系と母の因果系が交叉した結果であるところの必然です。それが偶然に思えるのは、私たちの感覚なり知性なり理性なりが不十分である結果、因果系列で世界を捉えて説明しきれないがための所産であるとします。
偶然というのは因果系列によって認識しようとする私たちを攪乱するマヤカシに過ぎない、と。あらゆる物理的諸条件を余すことなく把握することのできる悪魔めいた知性を持つ存在がいるならば、少なくとも事後的には、因果系列で世界を説明することはできるであろう、と。
しかし、本当にそうなのでしょうか。
既在の事柄に関して因果系列を充当して理解することが可能であるならば、世界の現象の因果系列を無限に遡っていくことで、原始の原因xに到達することになります。
万象の因果系列が円環する理に服すとしても、その輪廻を始動させた第一要因xが存在するはずです。しかしながら、この原始の原因xは果たして必然の相のもとに存すると言えるのでしょうか。原始原因がどのようなものであるかについては有史以来の論議があり、現在もなお様々な学問分野において種々の方法において研究がされています。
しかし、ここで問題になるxの必然性は、x自身の本質を追究することでは導き出せない結論です。この方法では、xの本質を見定めることで、他の因果律の原始原因yではなく「この世界の」原始原因xは数ある全体の中から「選ばれた」理由を解明することにあります。
この場合においてはxを選ぶ側が存在し、xは被造物の立場に立っているため、真の意味での原始原因とは言えません。すなわち、真の意味でのxはそれ自身に原因を持つような全体、宗教上の神のような存在であると考える他はありません。
そしてこのxが必然的であることを証明する必要があります。神の存在を証明するのではなく、神が存在する理由を探究する方法を採らねばならないといえるでしょう。
しかし、自身に原因を持つxの原因はxであり、これは無限循環に他なりません。あるいはこのxの始原を追い求めるなら、xは他因的な存在となり、真の意味での原始原因ではなくなります。xが必然的に生じたものであるという確証が持てないすれば、そこから展開する因果系列、この世界、今ここにいる私すら必然的な存在とはいえないのではないでしょうか。
どう理屈付けようと、私たちは現実に存在しています。喩えxの存在が偶然的な、因果律では説明できない秩序によるものだとしても、x以下の現実世界において因果系列は成立しています。故に、因果律の始原を検証するのは形而上学の範疇を出ないといった指摘も一理あります。
しかし、この世界に違和感を覚える時、必然性によりその感覚を捨象してしまうだけでは、いつしか綻びや限界が見えてくるように思えます。xを括弧に入れているということを意識することが、特定の世界観に雁字搦めにされないためにも求められるのではないでしょうか。偶然に存在する私たち自身の生を噛み締めながら、世界を捉え返してみる契機を持つことは重要なのかもしれません
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