世界は謎で満ちている。ミステリというある意味ただの「謎解き」という形態だけで小説の一ジャンルが作り出されるのだ、いかに世界は謎のネタに溢れているかという話である。
そんな中で、「絵画」というものは基本的に謎で満ちている。なぜなら芸術家はその絵画しか語る手段を持たないからである。後世の人々はその絵画を見て、芸術家が何を思ったのか何を伝えたかったのかを想像するしかない。絵画を見るという行為は、基本的に謎解きという行為とほぼイコールである。
世界中の人々がずっと「この絵の謎を解きたい」と思い続けてきた絵画がある。誰しも一度は目にしたことがあるだろう、『Het meisje met de parel』和訳すると『真珠の耳飾りの少女』という絵画である。今回取り上げるのはこの絵自体ではなく、この絵をモチーフにした「真珠の耳飾りの少女」という映画である。
前置きが長くなったが、この映画は、トレイシー・シュヴァリエという小説家がヨハネス・フェルメールの絵画『真珠の耳飾りの少女』から着想を得て執筆した小説を原作としてつくられた。舞台は1660年代のオランダ。主人公はグリートというフェルメール家の住み込み下女。彼女はフェルメールのアトリエの掃除に出向くうちに美的感覚を見出され、彼の創作に携わることになってゆく。
芸術的センスがなく嫉妬深いフェルメールの妻と、幼さと色気を兼ね備えフェルメールが惹かれざるを得なかった美しさを持つグリートの対比から見える、感情のゆらぎ、対立、ざわめき…静かな映画なのに根底に流れる緊張感が素晴らしい映画なのだ。
そしてこの映画の一番の魅力は、何といってもフェルメールの絵が動いているかのように錯覚できる「光」の表現である。どの瞬間も色彩や陰影やカメラワークが秀逸で、どの画面を切り取っても、一瞬一瞬がフェルメールの絵画の世界なのである。
グリートがモデルをすることになる『真珠の耳飾りの少女』をフェルメールが完成させる場面で映画は終わる。この絵画はオランダのマウリッツハウス美術館に所蔵されているフェルメールの代表作である。(ちなみに去年神戸に来ていたため私も見に行った。)オランダ絵画なのに装束は異国のもので、いつ描かれたのも不明、という謎の多い絵画だ。
そんななか世界中で考えられてきた「この少女は誰なのか?」という謎も未だに解かれていない。現在は、これは肖像画ではなくtronie(トローニー)という、特定の人ではなく人物の表情や性格のタイプを表現を探る習作なのだ、いう説が一番有力である。
つまりモデルなしに想像で描いたものか、実際にモデルはいても肖像画のようにその人物の地位や名声を表面に押し出す必要がない、そのため画家が自由に描く事ができる絵であるということだ。
こんな説が有力なため、この映画「真珠の耳飾りの少女」が史実に基づいたものである、とは言えない。はっきり言って全部空想である。しかし、解けていない謎だからこそ、あらゆる可能性を含んでいるというのも本当である。
この映画には、フェルメールが描いた当時のオランダの息遣い、空気がはっきりと見える。主人と使用人の絶対関係や低所得階級の喧騒、オランダの冬の空気の冷たさ。これらはこの映画の説得力を何倍にもしている。
この空気の中での、グリートとフェルメールのこの絶妙な距離感が、『真珠の耳飾りの少女』という傑作を生み出したのだと思わざるを得なくなるのである。 史実に基づいている訳ではないこの映画を見ても、結局「このモデルの少女は誰なのか」という現実の謎を解くことはできない。
しかしその背景にある世界を映画は忠実に描き出している。この映画は、『真珠の耳飾りの少女』という絵画の魅力―つまりモデルの少女の美しさや彼女を見るフェルメールの目線、それらを取り巻くオランダの空気―を、映画という画面の芸術を使って見事に描ききったのである。
絵画を見て引き込まれ「この謎を解きたい」と思うこと、絵画という永遠の謎を解こうとすること、それこそが絵画を見るという行為なのだとしたら。映画「真珠の耳飾りの少女」を見て、謎に満ちたフェルメールの絵画を、自分なりに謎解きしてみるのもまた一興ではないだろうか。
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