記憶はいかに我々を規定しているか――「メメント」(2000、米)

◆Memento ――記憶をたどる異色のストーリー

人はみな、忘れたい過去もずっと記憶していたい過去も、両方持っているものだ。どちらが欠けても実りある人生にはならないだろう。それは忘れたい過去が教えてくれる教訓も、記憶していたい過去の持つ興奮も、今の自分を形成する大切な要素であるからだ。しかし記憶をもはや持つことができないとしたら、どういう人生が待っているだろうか?


今回は「ダークナイト」シリーズで著名なクリストファー・ノーラン監督の出世作である「メメント」(2000年、アメリカ)という映画を紹介したい。この映画は主人公のレナードが、とある一人の男を殺すシーンから始まる。しかしそこから物語の時間が前に進むことはない。どういうことか?なんとこの映画はストーリーが終わりから始まりに向けて、時系列を逆転させて映し出していくという手法で描かれているのだ。


この物語の主人公、レナードは自分の妻を強盗に殺されたショックとその時の外傷がきっかけで10分間しか記憶を保てない前向性健忘になってしまった。事件以降の記憶は全くなく、10分ごとに何もかもを忘れてしまう。それでも自分の妻を殺した強盗への復讐は忘れてはいない。頼れるものは10分前の自分が残した「写真とメモと刺青」だけ―――あらすじはこういった形である。


作品として評価するならば、先ほども言ったようにこのストーリーは「終わりから始まりへ」進んでいく。その中で視聴者は、次々と映し出される出来事がなぜ起こっているのか分からない。そしてそれは劇中のレナードも一緒だ。我々はそこでレナードと同じ視点に立つことを――直前の記憶が全くないという状況を――提示されるのである。


妻への復讐のために生きている。それは覚えている。しかしなぜ自分がここにいるのか、わからない。なぜこんなメモを持っているのか、わからない。そうした状況が繰り出すサスペンス性と、時間が「戻るにつれ」暴かれていく驚くべき真実。そのエンタテインメントとしての完成度は唯一無二のものがあり、この誌面ではその魅力を伝えきれない。映像でしか表現できない手法を、思う存分に発揮した名作だといえるだろう。


……しかし私が伝えたいのはエンタテインメントとしての「メメント」ではない。今回私が注目したいのが、「過去とアイデンティティの関係」についてだ。


◆アイデンティティによってゆがむ、本来の「目的」

この映画を通して、強く伝わってくるメッセージがある。それは「人は自分のアイデンティティのために、目的と手段をしばしば逆転させる」という事実だ。そもそもレナードにとってのアイデンティティとは何か。本来レナードは前向性健忘のため、四六時中「自分は何者か」というアイデンティティ不安にさらされている。そんなレナードにとって、自己のアイデンティティを担保してくれる過去は、最後に覚えている記憶である「妻のために復讐を成し遂げるという動機」に他ならない。


象徴的なのは終盤、――ということは時間軸では序盤であるのだが――レナードが未来の自分のため、わけあって「持っていた写真とメモをあえて焼き捨てる」シーンである。常に未来の自分のために残してきた写真とメモ。しかしここでは、今までの自分が「真実」と考えてきたそれらを自分で焼いてしまう。つまり、自分の前向性健忘を利用して、自己の記憶を都合のいいように操作している。


それもどのように操作しているのかというと、(これは多少のネタバレになってしまうのだが)レナードのとったその選択は彼にさらなる過酷な戦いを強いるものであった。彼もそれを十分承知していた。レナードは戦いから離れ、平穏な生活を手に入れるチャンスがあったにも関わらず、写真とメモを焼き捨てた。ここから導かれる結論は、「日々の復讐の中にしか、彼のアイデンティティはなかった。そのために写真やメモという記憶の部分を改変してまでも、復讐への動機を保持しようとしている」ということに他ならない。


日々の戦いの中に自己のアイデンティティを見出し、そのために自分の過去を操作する――こういった現象は現代社会でもしばしばみられる。特に仕事にしか生きがいを見出せない「仕事人間」などに顕著だ。


彼らの中では「仕事をしている自分」こそが目的であり、仕事の内容は極論をいえば何でもいい。しかもその「仕事をしている自分」というアイデンティティを満たすために、時として社会的には必要のない問題を作りあげ、真剣に取り組んで見せる。しかしその仕事は他者のニーズから生まれたものでないから、往々にして失敗する。そうしてうまくいかなくても「仕事をしている自分」が目標だから大きな問題ではない、といった具合にだ。本来、仕事はその内容こそが目的にされるべきだというのに、である。


◆本当の目的はどこにあるか?――我々はレナードではない

ここまでレナードになぞらえて我々を同様に考えていたが、この前提は当然間違っている。レナードが平穏を捨て、永遠の闘争の中に身を落とす理由は、彼は過去が蓄積できないからである。ということは至極当然なのだが、彼のアイデンティティは一生、事件があった日の自分、つまり「妻のために復讐を誓った自分」に規定されざるを得ない。彼は新たな記憶を得られないから、そこから自分のアイデンティティを変化させることができない。彼にとって復讐を放棄するということは、もはや自分の生きていく理由をすべて失うことと同義なのである。


だが我々は過去を蓄積することができる。いや、しなければならない。過去を蓄積するということは、その中で自分のアイデンティティをその都度確認し、我々は変化させることができるのだ。ゆえに我々は自分の本来の目的と手段が逆転していることに、いくらでも気づくことができる。仕事ではなく、仕事をしている自分が目的であることに。成長することではなく、成長している気でいる自分が目的であることに。


レナードの悲しい、復讐をしている自分というアイデンティティへの執着は物語の中でも、異質なものとして確かに描かれている。だがそれを異質だと感じることのできる我々は、ふと振り返ると自分のアイデンティティが何によって担保されているのか、回答を求められる。自分もレナードのように過去のアイデンティティに執着するあまりに、目的と手段が逆転していないか?誰かのためにやっていると思っていたことが、本当は誰の役にも立っておらず、自分という存在のためだけに行われていたのではないか?


自分のアイデンティティのために生きることが必ずしも悪だとは言えない。しかしそうした人間ばかりが増えれば、必然的にこの社会は生きにくくなっていくだろう。「メメント」は過去の記憶が、人間のアイデンティティを、そこから未来への行動もすべて規定していく一種の「恐ろしさ」をまざまざと見せつけてくれる。少しでも内容が気になってしまったそこのあなた。ぜひ、ご鑑賞あれ。

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