昨今、私達を懐かしい思いにさせてくれる商品が多いように感じる。最近では任天堂の復刻版ファミコン、スター・ウォーズの新作、お菓子の復刻版などが挙げられる。読者の皆さんも、「昔ハマってた! 懐かしい!」といった思いからこういった商品や作品を手に取ったことがあるだろう。
ではなぜ、私たちはノスタルジックな気持ちにさせてくれる商品を手に取ってしまうのだろうか? 懐古という想いはどこからやってくるのだろうか? 今回はそのことについて考えてみたい。
●「ノスタルジー・マーケティング」という手法
まず、初めに企業側からの視点を取り上げてみたい。みなさんは、ノスタルジー・マーケティングという言葉を知っているだろうか? ノスタルジー・マーケティングというのは、言葉の通り私達の懐古する物( 昔遊んだ ゲーム、思い出の味など) に関連した思い出を契機として購買意欲を喚起する手法だ。代表的なのは、グリコのビスコやポッキーを昔のパッケージにしたお菓子の復刻版や、 映画『ALWAYS 三丁目の夕日』 が挙げられる。
この手法には2つの利点がある。1つ目に、多くの商品が販売され、新標品でも目新しさを出すことが難しくなってきている現代にも関わらず、私達の思い出を刺激することで、低コストで購買意欲を掻き立てることができる。2つ目に、懐古な雰囲気を目新しいと感じる層と懐かしいと感じる層の両方を取り込むことができることが挙げられる。
懐かしいと感じる対象は人それぞれ異なるため、多くの人のノスタルジーを刺激するコンテンツを作成するのは簡単だとは言い難い。しかし昔流行ったものを利用することで、購買意欲の促進が見込めるのならば、企業がノスタルジー・マーケティングを利用するのも理解できるところだろう。
現在、私達を懐かしい思いでいっぱいにする商品や作品が氾濫しているのは、ノスタルジー・マーケティングという手法の流行を示しているのかもしれない。
●懐古は私達の記憶から来るものなのか?
企業が懐古を利用する理由は先程述べた。では私達の懐古という感情はどこから来るのだろうか? そもそも懐古、つまりノスタルジーという現象はいつから存在するものなのだろうか?
かなり昔まで遡ると、遣唐使であった阿倍仲麻呂が日本へ帰国する直前の送別会でこう詠んでいる。
天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に いでし月かも
この和歌も中国の月の風景に、故郷の奈良の春日にある三笠山の風景を重ね合わせながら( 懐古しながら) 読んだものであり、何かに触れ懐かしく思う事は奈良時代から存在した感情のようだ。
時代が進み、1688 年のスイスで初めてノスタルジーという概念、言葉が作られた。当時の言葉の意味は「故郷へ戻りたいと願うが、二度と目にすることが叶わないかも知れないという恐れを伴う病人の心の痛み」といったもので、現代で言うホームシックに近い感情のようだ。
この現象を昔の人は心の病気として症例を多く取り扱い、診断や研究などの医学的な取扱いが行われた。懐古は昔から存在した感情であり、研究もされていた程重要な心の動きであることが見てとれる。
では現代の懐古やノスタルジーという感情は私達の昔の記憶を元にした、その時に戻りたいという思いによるものだろうか?確かにそういった面は懐古を引き起こす大きな要因の1つであろうが、これだけでは説明できない事もある。
例えば、私達大学生は昭和以前の時代を実際に体験していない人がほとんどだろうが、『ALWAYS 三丁目の夕日』などを観たりして風景に懐かしさを覚えることはないだろうか? 昭和や大正などに撮られた写真などを見て懐かしさを感じる事はないだろうか? このように私達の記憶に無い昔の事でも懐古という感情が引き起こされる事は多々あるだろう。
この事は現代に疲れ、当時の時間の流れが緩やかであった時に憧れの気持ちを抱いている、またはインターネットの普及により人との繋がりが希薄になったと感じる人がまだ家族代々同じ土地に住み続けており人との関係が強固だった時代に憧れていると推測できる。
つまり昔の時代に懐古するという感情は、時間の流れが緩やかで人情に溢れた世界の象徴ではないのだろうか。
● 「懐古= 死の忘却」という仮説
懐古という心の動きの本質は何なのであろうか? ここである1つの仮説を挙げたい。懐古は私達の中にある記憶(経験の有無にかかわらず)に関連させて、昔に思いを馳せる事で死(未来) を忘れさせるという効果があるというものだ。良い思い出であれ悪い思い出であれ、懐古が引き起こされる時は常に肯定的態度を取ることとなる。
私達はわざわざ嫌な思いをしてまで記憶から過去のイメージを引っ張り出そうとは思わない。懐古を行う時に引き起こされる感情は、基本的には良いものだ。常に死に向かって進んでいる私達の生において、昔の出来事を思い出す懐古は時間を止め、私たちに一瞬だけ人生の休息を与えてくれるものかもしれない。この事は懐古を行うことで、死から逃れることができる、死を忘却するとも言える。
だから懐古できるコンテンツが与えられた時、それは死を忘却できるキッカケを与えられた事を意味し、私達は好き好んでそのコンテンツに飛び込んでしまうのだ。太陽の塔を制作した芸術家の岡本太郎氏も懐古についてこのように述べている。
人間が一番つらい思いをしているのは、 『現在』なんだ。やらなければならない、ベストを尽くさなければならないのは、現在のこの瞬間にある。それを逃れるために『いずれ』とか『懐古主義』 になるんだ。懐古趣味というのは現実逃避だ。
私は常に死に向かって進んでいる人生において、懐古は宗教と同様に死を忘れさせる効果をはらんでいるように思える。みなさんにとって懐古とはどのようなものだろうか?
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