厨二病。この言葉が一般に使われるようになって久しい。かつて伊集院光が「中学2年生くらいの年代にありがちなこと」というニュアンスで自虐を込めて使い始めた言葉は、次第にインターネットを中心に浸透し、今や思春期の少年が行いがちな珍妙な言動に対する蔑称の一つとして使われるようにもなった。
では何故、厨二病はこれほど急速に浸透し、一般化したのだろうか?
その疑問にぶち当たった時、私は1つの仮説を思いついた。誰もが潜在的に厨二病的な要素を備えている、或いは欲しているのでは無いのだろうか?すなわち、人類皆厨二である。
例えば、ある古典文学にも厨二病の片鱗を感じられる。『ドン・キホーテ』である。自分は騎士であると妄想した主人公は、ロバを白馬に見立ててまたがり、風車を化物に見立てて立ち向かう。つまり、主人公は色眼鏡を通して世界を認識しており、周りの人々はその妄想を否定することなく付き合ってくれる。その循環が彼に更なる妄想を生み出させるのだ。これが厨二病でなくて何だと言うのだろうか。現在の邪気眼の原型である。そして、この作品が名著として語り継がれているということは、人々が昔から厨二病を欲してきたことのひとつの証明になるのではないだろうか。
また音楽としての厨二病も存在する。BUMP OF CHICKENを想像していただきたい。あるインタビュー記事にはこう書いてあった。
昔、『天空の城ラピュタ』を観て、自分の目の前には守るべき少女も追いかけるべき宝もないことに絶望した、と語っていた藤原基央はしかし、ロックという無限のファンタジーのキャンバスに、ありったけの「今、ここ」への願いを込めて未来地図を描き続けてきた。
ただの人間が言えばただの厨二病な発言も、才能の伴った人間が言うと、とんでもない空気になる。邪気眼系厨二が現実において、一人でファンタジーを演じるのに対して、彼は音楽を媒介にファンタジーを他人に伝染させていく。そして、これは多くの表現者に当てはまるのではないだろうか?音楽にかぎらず、小説、劇、etc。
ここで、あらゆる芸術は厨二から生まれるという見解が生じる。己の中に一つの幻想を生み出し、現実から己を内省した上で、何らかの具体的な形でその幻想を表現するのだ。そのため、古今東西、芸術というものは厨二要素から発展してきたということが出来る。そして、己を内省できるかどうかが、いわゆる痛い厨二か才能ある厨二かの分水嶺になるのではないだろうか?
最期に紹介しておくのは、今年京都大学の文化祭、通称NFに突如現れた厨二屋敷なるものである。内容は至極簡単、厨二病要素が散りばめられた屋敷の中で学生たちが実際に厨二病を実演しており、その中を進んでいくというものだ。
傍から見れば、高校の学祭レベルの内容かもしれないが、大学生レベルの実行力と資金力で厨二を忠実に再現し、表現する事で厨二屋敷はひとつのアミューズメントへと昇華されていた。最大待ち時間2時間、これはもはやディズニーランドと同じくらいの人気である。しかも、学外からの参加者も多いということが重要である。身内ではなく、何も知らない部外者がこぞって参加しているのだ。もはや、厨二は文化であると言えるだろう。日々、自分の中の厨二を社会や法に抑圧されている人々は、あの屋敷の中で、それを解き放つことができた。
これらの事実から導かれる結論は、人類皆厨二心を備えているということである。願わくはその心を、現実から内省し、具体的な形で自分自身、或いは社会に還元することを私は祈っている。
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