授業の終わりを知らせるチャイムが鳴った。と同時に、朝からぐんぐんとふくらんで今にも張り裂けそうになっていた教室の閉塞感がぷしゅう、と空気が抜けた風船みたいにしぼんでいった。たった今まで、僕の目の前にはマッチ棒みたいな黒い頭が等間隔にいくつも並んでいたのに、間延びしたチャイムの音に合わせて徐々にエネルギーを吹き込まれて、いつのまにかそれらはくにゃくにゃと動く生き物へと変わっていった。そのくにゃくにゃと動くクラスメイトたちの中には、彼らの頭髪よりもっともっとどす黒い葛藤がうごめいているのだと思うと、僕は変な気分になった。
たわいもない妄想をしている間、教室の後ろの席に座っていた僕は、じっと寺島の背中を見つめていた。チャイムの余韻が消え去っても、寺島は前も向かずに机に頭を近づけて、右手を微かに動かし続けていた。寺島はいつものように授業なんて聞かずに、ただ黙々と絵を描き続けていた。しかし、そんなことは今の僕には関係のないことだった。今の僕は、僕のやるべきことをやらなければいけなかった。小さくくるまった寺島の猫背を横目に、最後の授業が始まる前からまとめていた荷物を手に持って、僕は廊下に飛び出した。
廊下から階段を下りて一階に着くと、校舎の端にある靴箱までまっすぐ歩いた。靴箱の横をすり抜け、一旦校舎を出る。すると右手に、本校舎よりも少し小さな建物が見えてくる。旧校舎別館その一階にある、美術室。そこが僕の居場所であり、上田先生がいつもいる場所だった。
僕は美術室のドアを勢いよく開けた。白いカーテン越しにあふれる柔らかな光を受けて、整頓された机の表面はどれも白く輝いていた。僕は一人でその机たちを教室の後ろまで寄せていった。床に溜まった今日一日分の埃が舞い上がり、そこに光が乱反射して、室内はより一層きらきらとした光に包まれた。放課後の、自分だけしかいない美術室。乾燥しきった音のない部屋の中で、小さなドアを隔てた先に上田先生の気配だけを感じた。上田先生はいつも美術室の横にある小さな教員部屋にこもっていた。
きっと上田先生は僕が今日何のために美術室に来たのかを、わかっていない。いや、正確にいえば僕がいつもと同じように美術室に来ていると思っている。教室の前に置かれたホワイトボードの後ろの戸棚を開けて、自分の背丈ほどもあるイーゼルを取り出すと、先ほど机を寄せて作ったスペースの真ん中にそれを置いた。イーゼルに向かって右横に机をひとつ、真正面に椅子を置く。最後に、教室の隅にひっそりとたたずんでいた絵を一枚、イーゼルの上にたてかけた。
入り組んだ岩礁に海から押し寄せる荒波が激しくぶつかり、大きな水しぶきをあげている、まさにその瞬間を描いている絵だった。二年も前に完成させたはずの絵に、僕が初めて描いたこの油絵に、今の僕がもう一度何を描き加えたいのか、自分でもわからなかった。ただ、先ほどの寺島の言葉が僕をここへ連れてきたのは間違いなかった。僕はこの絵を、完成させるためにここへ来た。
最初に寺島と知り合ったのは中学生の頃通っていた塾だった。その頃僕は絵を描くのが好きで、塾の授業中には必ず、配られた問題用紙の余白の部分に好きなキャラクターの絵をびっしり描いていた。描いた絵を塾の同級生に見せると、みんな口をそろえてうまいねと言った。自分は少し努力すればこのまま漫画家になれるんだろうと思っていた。僕だけじゃなくてみんな、今の日常の延長線上に『素敵な自分』が両手を広げて待っていてくれていると本気で信じていた。
そんなある日、入塾してきたのが寺島だった。寺島も僕と同じように、授業中ずっと額を机に近づけて、問題用紙の余白を絵で埋め尽くすのが大好きだった。僕たちは授業が終わるたびに、今日描いた絵をお互いに見せ合った。寺島はアメコミが好きで、バットマンやスパイダーマンのような筋骨隆々としたヒーローばかりを描いていたし、僕はロボットアニメを見るのにハマり、自分の考えたオリジナルのロボットばかり描いていた。ただ違ったところがあるとすれば、僕は漫画家になれると思っていたけれど、寺島は映画監督になれると思っていたところだった。
僕たちはお互い示し合わせたように、地元から少し離れた高校に一緒に入った。だけどそれから、僕は自分の絵を寺島に見せなくなった。寺島だけじゃない、正確にいえば絵を描かなくなった。最初は絵も少しは描いていたけれど、しだいにやんちゃなクラスメイトと仲良くなり、僕は毎日そいつらとつるんで遊んでいた。授業中は絵を描く時間からもっぱら居眠りをする時間に変わり、それに合わせて放課後は夜遅くまで外で遊ぶようになった。一人でいる時間が惜しいと思うくらいの日常だった。その中で僕は、漫画家になるという夢を毎日毎日、自分でも気がつかないうちに捨てていった。
だけど寺島は毎日毎日、絵を描いていた。休み時間の教室で、誰にだって気兼ねなく、自分の描いた絵を寺島は見せていた。中学生の頃と何ら変わりのない瞳をしていた。いつしか他のクラスメイトから「寺島は絵がうまいな」なんて言われるようになっていった。それを聞いた時、その言葉は細い針のように背中から僕の体内に入っていって、胃の中でいつまでも冷たいまま残っているかのようだった。隣でそう言うクラスメイトは僕が昔、寺島と一緒に絵を描いていたことなんて知らなかったし、僕から知らせるつもりもなかった。お互いの絵を見せ合うなんて、その頃の僕はそんな行為を気持ち悪いと感じていた。昔と変わらない寺島の瞳は、もっと気持ち悪かった。
そんな僕がなぜ美術部に入ったのか、答えは簡単で、寺島が美術部に入らなかったからだ。寺島はもともと部活とかそういうのに興味がないようだった。それに高校に入った当時、美術の顧問だった上田先生の生徒ウケはあまり良くなかった。襟の汚れたグレーの服を毎日着ていて、頭髪は人並みよりさみしく体も細身で、なんというか幽霊みたいな人だった。口数は少なく、生徒の雑談や内職にもおおらかで、正直生徒の間ではなめられていたと思う。僕も上田先生のことはどこの学校にもいる、生徒不干渉を決めこんでいる一教師だと思っていた。
美術の授業中、当然というかやっぱり寺島は絵を描いていた。むしろ美術の時間なのだから絵を描いて当然だという風にいつもより堂々として、その日はバットマンの立ち姿を黙々と配られたスケッチブックの上に描いていた。上田先生はその時、水彩画と油彩画の違いについて話していたような気がしたのだが、突然話をやめて寺島の前に来ると、「今は絵を描く時間じゃない」と一言、寺島に告げた。いつもとは異なる先生の声色に、教室がしん、となる。寺島は驚きで目を見開いたまま、「あっ、はい。すいません」と答えた。上田先生は頬を少し上げ、そのまま体をかがめて寺島の目を見据えながら、再びこう言った。
「今は美術の時間なの。お絵かきの時間じゃないの」
その時、このくたびれた中年男性の放った一言が、僕の行く先を照らす希望に聞こえた。鍋の底をおたまで思いっきり叩いたみたいにくわぁぁん、と頭の中で音が鳴った。その言葉は少し離れた机に座っていた僕の、心臓から手足の先まで震わせた。この一件を機に、前からそれほどよくもなかった上田先生の評判はさらに落ち込んだし、寺島にいたっては自分が叱られた理由に納得がいっていないようだった。だが、なぜかそれは僕にとってこの学校での居場所を見つけたかのような瞬間だった。絵を描くことと、美術は違う。あいつのやっていることは、美術じゃない。次の週、美術部に入部したい、と僕は上田先生に言った。目の前で見る上田先生はやっぱり年の割には老けて見えたが、僕の知らないことをきっとたくさん知っているのだろうと確信させる何かがあった。
0コメント