ぬめぬめとしたそのコバルトブルーが波の上の空を覆い尽くした頃、岩礁にその身をさらす白波を、どう塗り直すかについて、僕は頭を悩ませていた。幾日も白い絵の具を重ねたその波の部分は、ところどころが波の飛沫の方向に沿って盛り上がっている。そのすべてが、この絵を描いていた歳月を自分に思い起こさせてくれる。どんなに絵がうまくても、どんなに高い理想を持っていようと関係なかった。毎週美術室に足を運んで、はた目からは全く変化のないように見える部分に、何度も何度も白い絵の具を重ねていった。それは今こうして、吹きすさぶ雨風に長年その表面を削り取られてきた岩肌のように、何ともいえない偶然の生み出した自然美、とでもいったような印象を僕に与えていた。偶然が幾重にも折り重なって、ここにある。このことが僕をなにか強く動かした。あの音がまた、今度は僕のお腹から、鳴る。くわぁぁん。くわぁぁん。
僕はこれから手にする予定だった白の絵の具ではなく、先ほど使い終わったはずの青の絵の具を力強くパレットの上に出した。ちょっぴりではなく、たっぷりと。いや、全部。絵の具をお尻の方からくるくると折り曲げ、すべての青色を絵の具のチューブから出し切った。それはさながら、全てを吐き出す今わの際のようであった。そのドロドロとした絵の具が流れ出る合間にも鳴り続ける、金属同士がぶつかり共鳴し合うような音。くわぁぁん。くわぁぁん。もしかしたらこの音は、僕の中に湧き上がる何かしらの感情を、まるで相殺するように消してくれているのではないか。
油をこれでもかと含ませた筆先が、先ほどパレットの上に出した青をすくう。その青を、目の前の白波に向かって、勢いよく塗り付ける。何度も。何度も。先ほど空の部分に塗り付けた真っ青なコバルトブルーとしだいにそれは同化し、白波は画面の上から消えていった。僕はそれを繰り返し続けた。なぜこんなことをしているのかわからなかった。このくらい後でまた塗り直せると心の隅で思っているからこうしているのかもしれなかった。しかしそんなわけがないことくらい僕は知っていた。
そのうち画面の上に塗り付けられたそのコバルトブルーは、波の下に広がっていた岩礁をも飲み込んでいった。自分の腕がしなるように、絵の上を滑っていくのがわかった。いつの間にかあの耳鳴りは消えていた。代わりに、頭の中には、何かわからない液体がどばどばとあふれているようだった。それは油を含んだ絵の具よりはさらさらとしていて、でも出れば出るほど自分の中に染み入っていくようだった。心地よかった。
絵筆を介して手をしならせ滑らせしていくうちに、どんどん頭の中の液体は増していき、それに合わせて心が軽くなるようだった。そのことに気づくと同時に、自分はこの絵を直したかったのではなく、消したかったんだと気づいた。今、僕の目の前に広がっている、油を含んでてかてかと光る青は、ついにカンバスのすべてを覆い尽くして、この世の何よりも深く、僕の脳裏に鮮明にこびりついて離れなかった。よく見れば、波や岩礁のあった部分の跡が、絵の具ごしに盛り上がって突き出ていて不自然だった。でもこれは僕にしかわからない記号だ、と僕は思った。そこに何かがあったことを知っているのは僕だけだ。そこに含まれた寺島への思いも、上田先生の優しさも、自分へのやるせなさも、思い出せるのは僕だけだ。僕だけ。
ふと窓の外を見ると、もう赤い夕陽が空の奥に居座っていて、その夕陽は僕に何か言いたげな目をしているように思えた。赤という色に人は勇気づけられるというけど、赤という色に人が救われる、ということはないんじゃないか。カンバスのすべてを支配したぬめぬめとした青は、その赤い日差しを受けて黒味を増していた。人を救うのは、きっと青だ。だけど赤い夕陽は意外とこの絵によく似合う、と僕は思った
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