僕は何も言わずに教室を出て廊下へと走った。これ以上寺島とは目を合わせたくなかったし、そもそもそんな権利を与えられていない気がした。だから寺島がどういう風にその時の僕を見ていたのかわからないが、廊下を出てふと振り返るとさすがに僕の後をついてきてはいなかった。手持無沙汰になってしまった僕は校舎の外で時間を持て余した。休憩の終わりに教室に帰ってきた時には、寺島はいつものように机に座っていた。くるんと背中を丸めて机に向かって、また絵を描いているようだった。
午後の授業の間ずっと、僕は自分に今できることを考えていた。僕は絵を描いてはきたけれど、絵を描いていった先のことまで考えちゃいなかった。
絵を通してしか僕は自己表現ができなかった。だけどできればそれは寺島とは別の回路がよかった。寺島と競争したくなかった。映画が好きだと公言しているくせに、僕が心の中で大切にしていた絵という社会との回路を、半端な気持ちでうまくやってのけているようにしか見えない寺島の隣にいたくなかった。僕は閉じた環境で自分の絵を、自分が納得するまでじっとりと、ねっとりと描いていたかった。僕は自分のために描いていた。
でもすこし冷静になってみて気づいたのは、実はきっと寺島も僕と同じだったんじゃないかということだった。あいつの言った「わかるやろ」という一言。映画監督になりたい自分と、それに出てくるヒーローの絵しか描けない自分。寺島も絵しかなかったのだ。あいつも映画監督にはなりたくとも、今の自分が社会と簡単に接続できる回路に、心地よさを見出していたのだ。寺島は僕と同じだった。そんな彼が自分の進むべき道を決めはじめている。僕は何も決まっちゃいない。そう思うといてもたってもいられなくなった。ならば、せめて過去の自分に決着をつけたい。
僕は、僕の場所に向かおう。美術部に入って最初に描いたあの波の絵を、きちんと完成させたい。あの絵はまだ完成しちゃいなかった。させちゃいけなかった。油絵は何度でも上から塗り直せる、塗り直せる。上田先生は僕に直接、描いた絵の感想を述べることはなかった。それは上田先生が、僕が僕のために絵を描いていることを知っていたからだ。けれど上田先生はそれを知っていながら、あの空間を僕のために明け渡していた。それを思うと、なおさら過去の自分を認めなければいけないと僕は静かに決意していた。
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