幸福論とアイスクリーム

文責 つばさライオン


いざコラムを書くにあたって過去の自分の発言やコラム草案を見返してみると、どれほど自分の考えていることが大したこと無いかということをまざまざと突きつけられているかのように感じる。


こんな感じで文章を書き始めよう。随筆だ。だから、哲学の話をしよう。


さて、このweb連載も今回で六回目だ。


書く前まではいくらでも書けると思っていたコラムだが、実際書くとなると難しい。


哲学の話をしたいと思った。しかし、知識が無い。ソクラテスが分からなければカントも分からない、ニーチェを理解しているのかといえば勿論違う。


ここで思い出されるのはこの言葉だ;


「語り得ぬものについては、沈黙しなければならない」


かの有名なウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』最終章の題名である。


この言葉を引用した意味は特には無い。ただ引用したかっただけだ。


そもそもウィトゲンシュタインが論考に記した「語り得ぬもの」と私の「語り得ぬもの」は別だ。彼が言った「語り得ないもの」は言葉の限界の外にあるものであり、自分の「語り得ないもの」は教養を深めれば語り得るのか得ないのかが分かるが、逆に言えば分からないものだ。


何が言いたいかっていうと、文章に説得力を持たせたいなら文章を読もうということか。


ここまで完璧に駄文であるわけだが、つまりはこんな感じの話をする。


さて、コラムを書くにあたって必要なのは、「何を伝えたいか」だろう。例えば前回のコラムでは「やればやるほど好きになる、例えば鍋とか政治とか」というのを約二千文字で記した。なら先に私が伝えたいこと、つまるところ結論を言うと、「自分が自身に良かれと思うことをやれ」ということである。


またまた哲学界のカリスマ、ウィトゲンシュタイン先生の言葉を紹介させて頂こう。


「幸福に生きよ!」

(草稿 1916年7月8日より)


何故紹介したかというのを書く前に、ここで一つ命題を投じよう。


「人々は必ず幸福になれる」


別に宗教の話ではなく、満足度の話である。ここで言う幸福とは満足した状態のことであり、客観的・論理的・倫理的に関わらず主観としての私が「満足」しているならば幸福なのである。


更に自分の幸福観を語ろう。「今この瞬間がずっと続けばいいのに」とか「ああ最高だ」、こう思えたら幸福だと言えるだろう。


例えば友人と遊ぶのが楽しければ幸福だろうし、お互いに深く理解しあえる親友や恋人と、遊んだりいちゃついたり話し合ったりするのは幸福だろう。最近はつまらないと思っていて録り溜めしていたアニメを一気に見ることが出来て幸せだったし、お腹が空いた徹夜明けの五時にお菓子を食べた時に幸福を感じた。また、「自分が幸せだと感じた」ということ自体幸せなことだと思った。


だが、この幸福論が全ての人々に通じるわけではないだろう。


極端な話、俗にいう「幸福」に反吐が出て、人に暴力を振られる方が幸せとかいうサイコパスな方々も中にはいるのだろう。だからこの「幸福観」というのは、「語り得ぬこと」であり、世に回っている万人に対しての一般論なんて糞くらえだ。幸せになる方法なんて謳った新書なんて死んでしまえ。その限界をもってウィトゲンシュタインは人々に対してこう突き放さざるを得なかった。


「幸福に生きよ!」と。


あえて言うが、皆幸せになりたいのだ。例えば教養をつけたいとか。もっとおいしいもの食べたいとか。彼女ほしいとか。この文章を読んで、「自分が自身に良かれと思うこと」を今一度考え直し、各人の「幸せ」を見つけ出して頂けたら書き手としてこれ以上無い幸せである。


ああ、こたつで食べるパルムのバニラホワイトチョコがおいしい。幸せだ。

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