絵筆を持った指先に力が入り、パレットの上で絵筆の毛先が開いて、青の絵の具と油をたっぷり含んでいく。そのまま、絵筆に含ませたどろどろの青を、白波の上に浮かぶ空の表面にゆっくりと重ねる。油をいっぱいにまとわせて、その青い絵の具はその絵に再び輝きをもたらしていく。
油絵はその重厚感に加えて、つるりとした光沢で絵が輝いて見えるところも僕は好きだった。僕がいくら落ち込んでいようと悩んでいようと、僕が手に持った絵筆の先から伸びる線は、いつも驚くほどに光っていた。それは今日だって同じことだった。あんなことがあったばかりなのに、久しぶりに絵の具を塗り重ねた波の絵は、僕の心とは裏腹にその輝きをみるみるうちに取り戻しているように思えてならなかった。
それは何気ない時間だった。今日の昼休み、寺島はいつものようにクラスメイトに絵を見せていた。確か、最近映画が公開されたアイアンマンとかいうアメコミヒーローだった。右斜め上から見下ろす形の構図で、まるで設定資料集に載っている精巧な図解のように、細部まで鉛筆で書きこまれた絵だった。寺島のお得意の構図で描かれたその絵を、教室の一番後ろの席から僕は遠目に見ていた。
今日は有志によるクラス対抗の球技大会とやらがあるらしく、教室に人は少なかった。だからであろうか、その絵を持ったまま後ろを振り向いた寺島と、ふと目が合ってしまった。寺島はやっぱり昔と変わらない瞳をしていた。僕はとっさに口角をあげて、不自然な作り笑いを寺島に向けた。何を思ったのか、珍しく寺島はその絵をもって教室の後ろにいる僕に近づいてきた。なぜか僕はその時、彼の瞳から目を背けることがうまくできなかった。
「こんなん描いてみたんだけど、どうかな」
どうかな、の意味がすぐにわからなかった。が、改めて近くで見るその絵は確かにうまかった。陰影のつけ方や書き込みの細かさが、自分ではどう描いたらこうなるのか一目ではわからないくらいに技量と存在感を持った絵だった。全身を鋼鉄の甲冑で覆われたスーパーヒーローの自信に満ちた姿は、寺島のこの絵に対する自信をそのまま表しているかのようだった。
「へー……お前、絵描くのどんどんうまくなってるな」
矜持を最大限に保って、小さな声を振り絞って僕はそう答えた。うまい、うまい、確かにうまい。でも、これを描いた先にお前のなりたい映画監督への道があるのか? いや、そもそもこんなことをしていて夢は叶うのか? 久々に見せつけられた寺島の絵のうまさと、その中途半端な態度に嫌気がさしてつい口が滑る。
「でも映画やりたかったんじゃないっけ、お前」
一瞬、寺島は言葉の意味をはかりかねていたようだった。
「そうだよ。昔から言ってるじゃん、今更どうしたんだよ」寺島の返事は、未来に何の疑問も持たない真っすぐな言葉だった。
「だって、絵描いてるだけじゃ映画監督なんてなれないでしょ」
「映画は映画でいっぱい見てるし。大学入ってからは本格的に勉強するし」
「もっと今からそっちやればいいじゃん。なんで絵なんかまだ描いてんだよ、お前」
意図せず語気はあらぶり、気がつくと僕は彼の瞳を見つめるというよりにらめつけていた。
「そうかもしれないけど、じゃあ俺は絵を描いちゃいけないのかよ、俺がしたいことするのに理由はいらないだろ」
寺島は、僕の言葉に耳を貸す気はないようだった。僕は続けて言った。
「映画作りたいならさ、自分で映画撮るとかさ、もっと学ぶこと学ぶとかさ、あるじゃん。俺はお前が、昔を引きずってさ、何となく絵を描いてるようにしか見えないんだよ」
寺島は、黙った。ずっと前の美術の授業中、上田先生が寺島のことを黙らせたように、今度は僕が寺島を黙らせた。
その後で、寺島はぼそりとつぶやいた。
「俺だってそうしたいけど、どうしたらいいか全部ちゃんとわかってるわけじゃないよ……」
てっきり寺島がさらに反論してくるかと思っていたので、僕は拍子抜けして、案外素直だな、なんて思ってしまった。今なぜこんな偉そうなことを僕が寺島にしゃべっているのか自分でもわからなかったが、僕はこの行き場のない感情を、上田先生と自分とを重ねることで納得させるしかなかった。教室は先ほどと変わらず、まばらに散らばった生徒達が、それぞれ思い思いの休憩時間を過ごしているだけだった。
「でもお前もまだ絵、描いてるんだろ。この気持ち、わかるだろ。なんとなく描いてしまうよなぁ、手が落ち着かんっていうか、心地いいって覚えてるわ。ここからなかなか出られないだろ」
心地いい、出られない。
突然、寺島がそう言うのを聞いた瞬間、くわぁぁん、とあの音が頭の中で鳴って、僕の体を揺らした。どうしたらいいのかわからなかった。身動きが取れなかった。今でも覚えている、血の気が引いて、自分の意識だけが体を離れていって、今の寺島と僕との対話をどこか遠くから見ているような気持ち。くわぁぁん。くわぁぁん。
自分の今いる場所が心地いいだなんて、思ったこともなかった。でもそれこそが心地よさだったのだと気づいた。心地よさ。寺島は心で絵を描いていた。僕はいつも頭で、絵を描いていた。寺島との距離を常に確保するために、僕は絵を描いていた。あの美術室で絵を描いている時、僕の心は満ち足りる。僕はこの場所にいてもいいんだという気持ちになる。世界に新しい色を塗り足している気持ちになる。それが本当に価値のあることかどうかよりも、そういう何か新しい価値を生み出す行為と場所が自分に与えられている、ということの方が大事だった。
突然、目の前の寺島と僕との間に大きな溝を感じた。それは僕が今の今まで目を背けていた溝で、でもきっと中学生の頃、寺島と知り合った頃にはなかった溝で、その溝が大きな大きな口をぽっかりと開けて、今さら僕を食らおうとしていた。
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